教育環境保全委員会

活動報告タイトル:第3回松原歴史ウォーキング 2006.8.20
 *天美地区(池内・城連寺)

8月20日(日曜日)開催しました。
☆☆☆☆☆ 大勢の参加者を迎える事ができありがとうございました。 ☆☆☆☆☆
天美地区(池内、城連寺)の池内地蔵標・敬恩寺・源義盛墓・力石・キリシタン灯籠・阿麻美許曽神社・下高野街道・大和川・最勝寺・安明寺を散策・見学しました。

     
 弁財天社  弁財天社2  弁財天社3

弁天池跡(旧依網池跡)
江戸時代、河内天美駅あたりから北西にかけて大和川の北岸付近まで依網池とよばれる大きな池がありました。 依網とは、天美地方の古くからの地名です。江戸時代の宝永元年(1704)、大和川が現在のように付け替えられた結果、池の大半は埋めたてられました。 弁天池は、その依網池の一部と伝えられています。 中島となっていたところにまつられていた弁財天社が、今も残っています。

説明を聞く参加者 池内地蔵堂 熱心に見学

池内の地蔵堂にまつられている2体のお地蔵さんは行き先をガイドする「道しるべ」でもあります。 向かって左のものは「右 天王寺 大坂」「左 ならみち」とあり、右は「右 八尾平野道」「左 天王寺 中の」と記しています。 いつ作られ、どこにあったかは不明ですが、江戸時代に近くを通る下高野街道に建てられ、旅人との安全を見守ったのでしょう。

敬恩寺 敬恩寺での説明 敬恩寺
敬恩寺(芦田秋窓句碑・俳画) 敬恩寺(芦田秋窓句碑・俳画) 敬恩寺(芦田秋窓句碑・俳画)

浄土真宗のお寺で、阿弥陀如来をまつっています。 京都の西本願寺に属しています。もともとは真言宗でしたが、室町時代の永正11年(1514)に浄土真宗に変わったと伝えています。 現在の本堂は江戸時代の明和4年(1767)の建物で、市内でも古い建造物のひとつです。 俳人の正岡子規の弟子であった芦田秋窓が前住職さんのお母さんの俳句に絵を加えた俳画がお寺に残っています。

城連寺・池内墓地 手束太郎源義盛墓 力石

手束太郎源義盛墓
光盛は平安時代の末、源氏と平氏の戦いの時、源氏側の武将として活躍し、とくに石川県の篠原合戦で平氏側の斎藤実盛を破ったことが「平家物語」に記されています。のち光盛は池内村の手束氏に身を寄せ手束氏の祖先の一人となりました。江戸時代末期の嘉永2年(1849)に池内村の手束文次郎らが建てました。

力 石
江戸時代から昭和時代前半ごろまで、各村の青年たちが力競べをした石です。おもに米俵1俵の重さで75kgほどありました。この墓地の力石は、明治41年に、池内村の太田音松という人がこの石を持ち上げて運んだので、記念に音松の墓石としてまつられたものです。

阿麻美許曽神社宮司の墓 阿麻美許曽神社 キリシタン灯籠

阿麻美許曽神社宮司の墓
阿麻美許曽神社の宮司さんは若宮さんとよばれる方で、もともとは奈良市の春日大社につとめる神主さんでした。 明治時代のはじめ、池内村の浦野さんを頼って、池内村などの氏神様の宮司になられたのです。とくに、明治後半に亡くなられた若宮春時さんや昭和前半に亡くなられた若宮春隆さんはお宮を立派にされ、春時さんのお墓は氏子の方たちが建てたのでした。

キリシタン灯籠
江戸時代、わが国ではキリスト教をしんじることは禁止されていました。しかし、一部の信者(キリシタンとよびます)は、日本伝統の灯籠にお地蔵さに似せたマリア様、あるいはキリストの像をきざみ、十字架を真似た石像物をつくっておがみました。これがキリシタン灯籠とよばれるものです。 天美地方にキリシタンの信者さんがいたのでしょうか。

阿麻美許曽神社 「行基」安住の地碑 日露戦争記念しめ石

阿麻美許曽神社
大和川南岸に入りこんだ大阪市域ですが、池内、城連寺、油上、芝の天美地区の氏神様です。奈良時代の大同年間(806~809)にまつられたと伝えられています。平安時代の初めには延喜式内社とされるほど、わが国でも有数の由緒ある神社でした。スサノオノミコトなどをまつっています。江戸時代まで「天見山」とよぶお寺があり、天美の地名の起こりとなりました。

「行基」安住の地碑
奈良時代の有名なお坊さんの行基が住んでいたと伝えています。行基は、今の堺市の家原寺で生まれ、奈良・東大寺の大仏をつくるのに協力したり、各地に池を掘ったり、橋をつくりました。
日露戦争記念しめ石
本殿の前にしめ縄をかけるために設けられた一対の石に、明治37年~38年におこった日本とロシアとの戦争に出兵した池内、城連寺、油上、芝などの人々の名前が各村ごとに刻まれています。当時の宮司の若宮春隆さんが明治39年に建てたものです。

下高野橋 下高野橋 大和川

下高野街道・下高野大橋・大和川
阿麻美許曽神社の前の道は、下高野街道といいます。京都や大阪などから和歌山の高野山におまいりするためにつくられた道で、平安時代にさかんに利用されました。とくに江戸時代にさかんに利用されました。 大和川は、もともとは奈良方面から柏原の国分のところで南から流れる石川合流して、北の方に向かって八尾や東大阪を通って大阪城あたりで大川(旧淀川)に合流していました。それを江戸時代の宝永元年(1704)に、今のように藤井寺・松原・堺方面に流れをかえました。このため、城連寺は田畑がつぶされ、水害が多くおこりました。

 
 最勝寺  最勝寺(力石)  安明寺

最勝時(力石)
浄土真宗のお寺で、京都の東本願寺に属しています。江戸時代の初めの元和2年(1616)に建てられたと伝えています。もともとは、阿麻美許曽神社の北側にありましたが、大和川が付けかえられた後、現在地に移ってきました。それまでは今、天美我堂7丁目にある善正寺がここにあり、善正寺が我堂へ移った後に最勝寺が移転してきたのです。境内に力石が4つ残っています。城連寺村の若者がかついだものです。門前には「右 ひらの」「左 すみよし」の道標もあります。

安明寺
最勝寺の本堂横に安明寺のお堂が建っています。鎌倉時代末期の南北朝の争いの時、城連寺の長谷川氏の先祖である南朝の和田氏の家臣、城連寺安明が元中年間(1384~92)に建てたものです。和田氏は南朝の後醍醐天皇に味方した楠木正成方の武将でした。安明寺は元、松原市長の長谷川正彦家の私寺として、いまも和田氏の守本尊の聖観音をまつっています。山門には楠木氏の紋が入っています。

     
 池内遺跡  池内遺跡  池内遺跡

池内遺跡
弥生時代から近世までの人々が住んだり、畑を耕した遺跡です。とくに、平成18年1月に平安時代の道路や建物が見つかり、話題をよびました。ここに高速道路ができますので、今も発掘調査がつづいています。

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