教育環境保全委員会

活動報告タイトル:第2回松原歴史ウォーキング 2005.11.27
 *上田~新堂~岡~丹南


     
 柴籬神社  丹比柴籬宮跡の石碑  歯噛社


柴籬神社
反正天皇の丹比柴籬宮の跡に建てられた神社。反正天皇をまつっています。秋祭りにはダンジリも出てにぎやかです。本殿の前には、近くの大塚山古墳(西大塚)から出土した石 の棺(お墓)の天井石も残っています。

歯噛社
反正天皇(仁徳天皇の皇子がいまから1600年前の5世紀前半に、都をおいた跡と伝えられています。柴籬神社の西鳥居側に建っています。松原は5年間、日本の首都として栄えたといわれています。「丹比」とは昔のこのあたりの地名のことです。

丹比柴籬宮跡の石碑
柴籬神社社務所の真向かいにあります。反正天皇が歯がじょうぶで美くしかったので、歯の神様としてまつられています。 本殿前の石の歯みがき面をさすると虫歯にならないと信仰されています。毎年、歯にちなみ、8月8日8時8分からお祭りがあります。

     
 観念寺本尊の十一面観音像 十二社権現宮  攝州平野大繒図 


観念寺本尊の十一面観音像
観音堂の正面におまつりしています。長ら傷んでいましたが、いまではきれいに修理されています。いまから600年ほど前の室町時代ごろの仏さまです。この両横には弘法大師空海と不動明王の像もまつられています。

十二社権現宮
中高野街道(旧道)沿いにまつられていましたが、いまでは新堂3丁目の小公園に移されています。平安時代ごろから江戸時代にかけて、京都や大阪方面から和歌山の信仰の山であった熊野三山におまいりする熊野詣の道すじに熊野信仰の神社(権現といいます。)が建てらました。イザナギ・イザナミなど12の神々をまつっており、ここへおまいりすれば、熊野におまいりするのと同じご利益があると信じられました。

上田の観音堂
近くの柴籬神社の境内にあった観念寺(戦国時代に建立)という真言宗のお寺が明治時代に無くなった時おまつりしていた仏さまをここへ移しました。いまは上田の観音講の人々よって守られています。広場山とは観念寺の山号で、柴籬神社は、広場山天神宮ともよばれていました。

     
 住吉街道  住吉街道道標2  住吉街道道標


住吉街道道標
中高野街道(旧道)と大阪の住吉神社へ向かう住吉街道沿いに建てられています。 「右平野、大坂道」「左さかい、住よし道」「すぐかうや、よしの道」「釈善心」「天保五年」とあり、江戸時代後半の天保5年(1834年)に建てられました。

     
 王仁の聖堂址  出岡弁財天の石標  出岡弁財天のほこら


王仁の聖堂跡と出岡弁財天
いまから1650年ほど前の4世紀末、応神天皇の時代に朝鮮半島にあった百済という国から王仁とよぶ学者がはじめてわが国に「論語」や「千字文」という学問の書物や漢字を伝えました。この時、王仁がわが国で最初に人々に学問を教えた聖堂が、この出岡の宮ノ池あたりと伝えられています。現在、その跡には弁財天のお社がまつられています。弁財天とは、音楽や知恵をさずける女の神様です。

     
 竹内街道道標  岡公民館  岡大師堂


竹内街道
竹内街道は、わが国最古の道のひとつといわれています。いまから1400年ほど前の7世紀ごろ(飛鳥時代)、外国使節が上陸する大阪の難波津と都のあった奈良県の飛鳥を結ぶ道でした。堺方面から来た道は、市内では岡・立部を通り、羽曳野市へといたっています。

岡公民館
岡公民館は、増池の上に建っています。もともとは、いまの岡図書館のところにありました。、増池の東半分は埋めたてられ、岡公園になっています。市内にはたくさんのため池がありますが、農業の減少とともに、多くの池が埋めたてられ公共施設などが建てられています。

     
 岡大師堂  十一面千手観音像(岡大師堂の内部)  岡交差点道標


岡交差点道標
東西の竹内街道と南北中高野街道の交わる所に建っています。「左さやま、三日市、かうや道」「右ひらの、大坂道」「左、さかい道」「寛政九年六月」「いせこう中」とあります。伊勢まいりの信者の方々が江戸時代後半の寛政九年(1797年)に建てました。高野山や堺方面を示しています。

岡大師堂の内部
和歌山県高野山の大円院で修行坊さんが、明治時代ごろからここに太子堂を建て、弘法大師空海や不動明王、十一面千手観音像をおまつりしていました。いまでは岡の観音講の人々がおまつりしています。毎年4月には大円院からお坊さんが来て、おまつがおこなわれます。

     
 松川長右衛門の碑  碑文の由来  丹南地蔵堂


松川長右衛門の碑
丹南村の庄屋であった松川長右衛門は、江戸時代前半、丹南地区の田畑をうるおす狭山池の改修を私財をなげうっておこないました。このため、丹南には長右衛門用水とよぶ、長時間にわたって水を狭山池からもらう権利が与えられました。いまも丹南の人々は長右衛門の徳をしのんで、命日の3月15日にこの碑におまいりしています。碑は大正5年に建てられ、大坂の有名な儒学者の藤沢南岳が文字を書きました。

丹南地蔵堂
現在、近鉄の丹南バス停になっている所には、お地蔵さんや役行者像(山伏・修験道を開く)などがまつられています。 しかし、江戸時代の丹南村の地図をみると、ここには「高札場」といって殿様(丹南藩主)が、村人に取り決め事や禁止事項などを知らせた木の掲示板が設けられていました。新聞・テレビやコンピュータのない時代、この場所が人々の情報源だったのです。いまある地蔵堂は、道(中高野街道)をはさんだ向かい側にありました。

     
 丹南天満宮の拝殿2  丹南天満宮標  丹南天満宮の拝殿


丹南天満宮の拝殿
菅原道真をまつっています。丹南地区の氏神様です。道真は学問の神様といわれています。 江戸時代初期に建てられましたが、その前の時代の豊臣秀吉が政治をとっていた桃山時代の様式で建てらています。本殿の左右には右大臣・左大臣が道真を守る形でまつられています。丹南藩主の高木氏も信仰したといわれています。

     
 丹南藩陣屋跡  酒丹南天満宮標  丹南藩主の墓


丹南藩陣屋跡
三河国(愛知県)安城出身の高木正次は徳川家康につかえ、大阪の陣で豊臣氏をほろぼすのに功績がありました。このため、家康は正次を大名にとりたてました。それが丹南藩1万石です。来迎寺の東どなりに陣屋(お城のかわり)がおかれました。高木氏は来迎寺を菩提寺としました最後の藩主の二女が皇族の三笠宮妃殿下です。

丹南藩主の墓
来迎寺墓地にある五輪塔です。初代藩主高木正次の墓です。高木氏は正次の時、江戸時代初めの元和9年(1623年)に丹南に藩をおきました。正次は寛永7年(1630年)に亡くなりました。以後、高木氏が江戸時代を通じて領地を支配しました。

     
 来迎寺山門  来迎寺のいぶき  来迎寺本堂


来迎寺・いぶき
来迎は融通念仏宗で、大阪市平野の大念仏寺が大本山です。来迎寺は江戸時代には大念仏寺に 次ぐ中本山という大変由緒のある寺院でした。奈良時代に行基が建てたと伝えています。平安時代末期に良忍というお坊さんが再建し、鎌倉時代に法明がお寺を立派にしました。本堂の裏の庭園には樹齢600年にもなるといういぶき(大阪府天然記念物)が植えられています。

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