教育環境保全委員会

活動報告タイトル:第1回松原歴史ウォーキング 2005.6.12
 *阿保~三宅 

今年度より、5回に渡り松原の歴史を知ってもらう為に、「松原歴史ウォーク」を開催しました。

   
 説明を聞く参加者1  説明を聞く参加者2  上田町遺跡(現在の松原市役所)


松原市役所が建っているあたりは上田町遺跡とよばれ今から1万年ほど前の旧石器時代から数百年前の近世にかけての複合遺跡です。 今の市役所は、1994年に新庁舎となりましたが、旧庁舎 の建て替えの際に弥生時代の田んぼがみなさんが立っているあたりから発見されました。

     
 長尾街道  長尾街道、道標  歴史の道、長尾街道


長尾街道は古代には大津道と呼ばれ、堺の大小路 から松原市・藤井寺市・柏原市をへて大和に通じていました。岡や立部を通る竹内街道とともに、で最も古い大道です。 現在の国道1号線、2号線ともいえるでしょう。 市域では天美我堂→新町→高見の里→田井城→阿保→ 上田→西野々→一津屋を通っています。

     
 「ちちかみばし」碑  長尾街道「ちちかみばし」  中門堰樋


「ちちかみばし」跡
京より来た旅の母親が長尾街道の橋のほとりで、乳飲み児に乳をあたえていました。児は乳を吸いながら眠り始め、母親も一息ついた時、児が恐ろしい夢でも見たのか母親の乳首を噛み切ったのです。
母は、児を抱いたまま亡くなりました。その後、母親の霊を慰める為ここに祠が建てられました。 愛児が、母親の乳房を噛み切ったことから「歯神さん」とも「乳噛」ともよばれています。 明治43年2月、大阪府の用水路(今井戸川の土木工事に際し、この伝説が広く行き渡っていたところから、ここに「長尾街道」「ちちかみばし」と刻まれた道標が建てられました。

中門堰樋
中門の堰樋は、今井戸川が長尾街道に沿う、狭山池から三宅の大海池に流れる用水の堰樋のことです。今井戸川は西流しますが用水の流れを東流させ、阿保茶屋で北流して阿保の海泉池に入っています。用水はさらに北流し、三宅の大海池に入ります。その水路は長さ600mで、上田阿保・三宅村の大海池に入ります。 その水路は長さ600mで、上田・阿保・三宅村の水田を灌漑しました。 また中門には堰樋を定めた享和元年(1801)の分量石が残されています。中門とは5世紀に反正天皇が都をおいた丹比柴籬宮(現、柴籬神社)の中門があったと伝承されていることから名づけられました。

     
 日露戦役記念碑  「阿保茶屋」碑  延命子安地蔵と道標


日露戦役記念碑
中高野街道は、阿保茶屋から松原駅に向かってまっすぐ延びています。しかし旧の中高野街道は記念碑の後ろを通り、地蔵堂の前の道から近鉄線を越し、府道大和高田・堺線沿いの理髪店の西側を通っています。 大正11年4月8日、大阪鉄道(現、近鉄)開通のため道路が遮断され、バイパスとして新道が開通しました。 新道開通にともない、明治39年に建てられた松原村日露戦争出征軍人碑も西向きでしたが、東向きに立て替えられています。同所に昭和3年の昭和天皇の「御大典」碑も建っています。

阿保茶屋
阿保茶屋は、東西の長尾街道と平野(大阪)から南へ下り、高野山に至る 中高野街道が交差するところです旅人目あての茶屋や休憩所があったことから、阿保茶屋と呼ばれました。
近世には堺─大和間の交流の他葛井寺や信貴山・長谷寺など河内・大和近郊の社寺に参詣する人々で賑わいました。 「茶屋竹」などの店が大正年間まで営業していました。後ろの 地蔵堂前の道が旧の中高野街道です。

延命子安地蔵と道標
中高野街道沿いの旧道と新道の分岐するところにあります。昭和31年に地元の信仰の篤い方が、大阪老人ホームに祀られていたお地蔵様を当地に移され、地蔵講をつくっておられます。昭和52年に地蔵堂が新築されました。地蔵堂の脇八尾・信貴山」「左平野・大坂」と刻まれた道標が建っています。

     
 海泉池満水石  阿保神社と老楠  阿保神社と阿保親王住居址


海泉池満水石
海泉池は地底に涌き水があり、大きい池を海にたとえ、その池を誉めたたえたことから名づけられたとつたえています。
阿保村と三宅村の立会池でその水掛は、三宅村25町余、阿保村9町余などでした。その用水は今井戸川の中門より水路で海泉池に掛けられています。さらに、用水は三宅村の大海池に掛けられています。北堤には堰高を定めた文化5年(1808)の満水石が設けられています。

阿保神社と老楠
阿保の地名は、平安初期に平城天皇の皇子である阿保親王(在原業平の父)がこの地に住み、邸内に親王池などを作ったことによります。阿保親王住居址には、親王社が建てられています。
阿保神社は、菅原道真を祭神とします。本殿右側に摂社として阿保親王(親王社)と厳島姫命(弁財天)を祀ります。また、樹齢千年を超えるといわれる巨大な楠が本殿の横に繁っています。

     
 阿保の集落1  阿保の集落2  阿保の集落3


阿保の集落
神社のきたにのびる阿保の集落は道路が狭く、突き当たったり、折れ曲がったりしているのが特長です。これは火事などの延焼を防御するためにかんがえられたといわれていますが、市内でも古い町並みを残しています。
     
 一里塚址  保田佐久三氏の顕彰像  市史文化財係事務所


一里塚址
江戸時代、この地の中高野街道の両側に小さな小山があり、街道を歩く人の目印として、松が植えられていたといわれています。江戸時代の絵図にも描かれ、この辺りの小山を一里山といいました。ちょうど大阪市の平野から一里(4キロ)の距離でした。

保田佐久三氏の顕彰像
大正12年の建立。保田氏は、松原村長を長年つとめた後、大阪府議会郡部会副議長として活躍されました。中高野街道の新道を大正11年につくられたのも保田氏です。西隣の邸宅は初代松原市長、故保田俊一郎氏宅です。佐久三氏の像は、ruby>大正末期の総理大臣加藤高明が顕彰してその名を記しています。また、大阪の著名な儒学者の藤沢黄鵠 が書をしたためました。

市史文化財係事務所
阿保浄水場の跡地に建っています。市内で発掘された、遺物などの調査・整理・保管等の作業をされています。太平洋戦争中は、南側に陸軍の高射砲陣地が設置されていました。

     
 屯倉神社  屯倉神社(神形石)  屯倉神社


屯倉神社の地蔵堂
宝永3年(1706)に三宅村で大火があり、村の3分の2が焼け、多くの村人が被害にあいました。智光坊というお坊さんの失火といわれ、智光坊焼きともよばれています。その供養のために建立された地蔵尊といわれています。宝永三年卯月望日と刻まれています。

屯倉神社と神形石
今から1500年程前の大和国家(天皇家)の直轄地である依網屯倉の名称より社号が付けられました。天慶5年(942)に菅原道真や、この地方の豪族土師氏の祖神を祀ったのが創建と伝えられています。境内に道真が休息したと伝える神形石(古墳の石棺残っており、宮司の妻屋氏が顕彰した文久2年(1862)の碑もあります。戦国時代には屯倉神社あたりに三宅砦が築かれ、現在も濠跡が残っています。

     
 酒屋神社  酒屋神社跡地  酒倉大神 三西町会児童公園


     
 西方寺の仏像  住吉祠  西方寺


西方寺
融通念仏宗の寺院。屯倉神社の神宮寺であった旧梅松院本尊の平安時代後半の十一面観音像を祀っていることから、以前は河内西国観音霊場の3番札所でした。また、近くの旧豊国寺(融通念仏宗)本尊の鎌倉時代の阿弥陀如来も祀られています。

住吉祠
三宅の西方に大阪の住吉大社の分霊を祀る住吉祠があります。水の神様として尊崇されており、祠の西側は淵になっていました。すぐ西側を今井戸川が流れています。

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